この論考の要旨
資本主義は、お金も株式も「皆が信じている」ことで価値を保つ、信用の上に建った仕組みです。その信用の大部分は今、画面の向こうの電子の記録に預けられており、AIによる偽装や攻撃は、信用を運ぶ器そのものを疑わしくしています。私は、ここで崩れるのは信用そのものではなく、仕組みに預けすぎた信用であり、行き場を失った信用は本来の場所へ還っていくと考えています。
01画面に映る「本物」は、もはや証にならないのか
2024年1月、香港である出来事が起きました。英国に本社を置く設計・エンジニアリング大手Arupの香港拠点で、財務担当の社員が、英国本社の最高財務責任者や同僚たちとビデオ会議を行い、その指示に従って15回、計2億香港ドル(約2,560万米ドル)を送金したのです1。ところが、会議に映っていた本人以外の参加者は、すべてAIで作られた偽物でした。社員は当初、届いた依頼に疑いを抱いていましたが、画面の向こうの顔も声も見知った同僚そのものだったため、その疑いを手放してしまったと報じられています1。
この事件が示したものは、単なる巧妙な詐欺の手口ではありません。私たちはこれまで、「顔が見え、声が聞こえれば本人である」という前提の上で取引をし、約束を交わしてきました。その最後の砦が、画面越しには崩れたのです。
攻める側の姿も変わりつつあります。米国のAI企業Anthropicは2025年11月、自社のAIが悪用されたサイバー諜報活動を検知して止めたと公表し、攻撃作業の8〜9割をAIが担い、人の判断が入ったのは要所の数か所にすぎなかったと報告しました2。熟練の技術者が何日もかけて行っていた作業を、機械が休むことなく同時に進める時代に入ったということです。
02疑心暗鬼の正体は何か
2026年の秋、日本でも不正アクセスによる情報漏洩の公表が相次ぎました。共同通信は、セキュリティー会社トレンドマイクロの集計をもとに、国内の企業・自治体が公表した不正アクセス等の被害が9月末時点で600件に達し、すでに前の年1年間の件数を超えて、過去最多を上回るペースだと報じています3。報道には「AIによるハッキング」という言葉が飛び交いましたが、国内の個々の事案についてAIが使われたと公式に認めた組織は、この論考を書いている時点では確認されていないと整理されています4。
私は、ここにこそ現代の不安の本質があると考えています。何が起きたのか、誰がやったのか、AIのせいなのか人のせいなのか、それすら分からない。敵の姿が見えないとき、人は周りのすべてを疑い始めます。疑心暗鬼という言葉が表す心の状態が、いま社会全体を覆いつつあるのです。
この不安は、情報だけにとどまりません。AIが使われたかどうかとは別に、2025年には、偽のサイトなどでIDやパスワードを盗まれた証券口座が次々と乗っ取られ、本人の知らないうちに株が売買される被害が広がりました。金融庁によれば、6月までの不正取引は7,139件、売買の総額は約5,710億円に及んだとされます5。画面に表示された自分の資産は、確かにそこに「ある」はずのものでした。それが他人の手で動かされてしまう。この現実は、私たちが何を拠り所に財産を持っているのかという問いを、鋭く突きつけています。
03資本主義は何の上に建っているのか
ここで、お金そのものの成り立ちに目を向けてみます。今、私たちの財布に入っている日本銀行券は、かつてのように金と交換できる約束がついたものではありません。銀行券は日本銀行にとって債務として帳簿に記されるもので、法律によってあらゆる取引の支払いに使えると定められています6。そして日本銀行は、銀行券の安定した供給とともに、銀行券の「信認」を保つことを自らの務めとして掲げています7。
法律の定めがあるとはいえ、1万円札が日々1万円として受け渡されていくのは、紙が尊いからではありません。「明日も、誰もがこれを1万円として受け取ってくれる」と、社会の人々が信じているからです。株式も同じで、株価は、その会社がこれからも利益を生み出すだろうという、未来への期待と信用に付けられた値段だと言えます。資本主義とは、突き詰めれば、目に見えない信用を目に見える数字に置き換え、それを循環させる仕組みだと私は捉えています。
信用には、もう一つ大切な働きがあります。それは、確かめる手間を省く力です。相手を信じられるからこそ、私たちは契約書を一行ずつ疑わず、受け取った代金を一枚ずつ鑑定せずに済みます。疑いが広がれば、あらゆる取引で確認が必要になり、経済の血流は滞ります。
そして現代、その信用の大部分は、画面の向こうの電子の記録に預けられています。預金も株も給与も、手に触れることはほとんどなく、数字として表示されるだけです。私たちは知らず知らずのうちに、信用の土台そのものを画面の向こうに明け渡してきたのです。
04信用が崩れるとき、何が起きるのか
日本には、その手痛い前例があります。1927年(昭和2年)3月14日、衆議院の予算委員会で、片岡直温大蔵大臣が東京渡辺銀行の破綻を口にしました8。ところが実際には、その時点で同行は休業していなかったと伝えられています9。
それでも、この発言が新聞で報じられると預金者の不安は一氣に高まり、銀行の前には預金を引き出そうとする人々の列ができ、取り付け騒ぎは他の銀行にも広がっていきました8。これが昭和金融恐慌の始まりです。もちろん、その背景には震災手形の処理など、銀行の経営そのものが抱えていた問題がありました8。けれども、火をつけたのは一言でした。
この出来事が教えるのは、信用は事実そのものだけでなく、「信じられるかどうか」によって動くという冷厳な法則です。言葉には現実を動かす力があると私は受け止めていますが、昭和金融恐慌は、その力が負の方向に働いたときの恐ろしさを歴史に刻んだ出来事だったと言えます。
05画面そのものが疑わしくなったとき、何が残るのか
1927年に揺らいだのは、いくつかの銀行への信用でした。しかし今、揺らぎ始めているのは特定の銀行や会社への信用ではありません。信用を運ぶ器そのもの、すなわち画面の向こうから届く顔、声、文書、数字のすべてが疑わしくなりつつあるのです。
ビデオ会議の上司も、電話の向こうの家族の声も、届いたメールも、表示された残高も、本物かもしれないし偽物かもしれない。そう疑わなければならない社会で、信用を燃料として回る資本主義は、これまでと同じ形で動き続けられるのでしょうか。
私は、ここで信用が消えてなくなるとは考えていません。崩れるのは、仕組みに預けすぎた信用です。行き場を失った信用は、本来あるべき場所へと還っていきます。後編では、その還り先がどこなのかを、私たちが人を肩書や数字で見るようになった習慣、日本人が古くから育んできた信の文化、そしてご先祖様とのつながりから論じます。
参考文献
- 1Kathleen Magramo「British engineering giant Arup revealed as $25 million deepfake scam victim」CNN、2024年5月16日。↩
- 2Anthropic「Disrupting the first reported AI-orchestrated cyber espionage campaign」2025年11月13日、 https://www.anthropic.com/news/disrupting-AI-espionage↩
- 3共同通信「国内の不正アクセス、最多ペース 相次ぐ個人情報漏えい、対策急務」2026年10月6日(東京新聞デジタル掲載)、 https://www.tokyo-np.co.jp/article/519993↩
- 4クリスタルメソッド株式会社「AIハッキングで情報漏洩が相次ぐ?日本・世界の主な被害一覧【2026年7〜10月】」2026年10月22日更新、 https://crystal-method.com/blog/ai-hacking-data-breach-2026/↩
- 5nippon.com「証券口座乗っ取り 不正な株取引の手口と急増の背景」、 https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01153/↩
- 6『改訂新版 世界大百科事典』「日本銀行券」平凡社(コトバンク)、 https://kotobank.jp/word/日本銀行券↩
- 7日本銀行「銀行券・貨幣の発行・管理の概要」、 https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/outline/index.htm↩
- 8日本取引所グループ「マネ部!」「【第12回】昭和金融恐慌と投資」、 https://money-bu-jpx.com/news/article031097/↩
- 9栗原功「住井すゑとその文学の里(二十一)」『広報うしく』牛久市、2007年11月1日号、 https://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/2007_11_01/image/11_1_08.pdf↩
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よくあるおたずね
- AIによって資本主義は本当に崩壊するのですか?
- 私は、崩壊というより、信用の置き場所が変わる大きな転換が起きると考えています。崩れるのは画面の向こうの仕組みに預けすぎた信用であり、信用そのものは人と人の間へ還っていくと見ています。
- お金はなぜ価値を持つのですか?
- 現在の日本銀行券は金と交換できるものではなく、法律で支払いに使えると定められていることに加え、人々が「誰もが受け取る」と信じていることで価値を保っています。日本銀行も、銀行券の信認を保つことを務めとしています。
- 画面越しの相手が本物かどうか、どう確かめればよいですか?
- 顔や声だけで判断せず、送金や大切な依頼は、こちらから電話をかけ直す、直接会うなど、依頼とは別の経路で本人に確かめることが基本です。
この記事のことば
- 信用経済(しんようけいざい)
- お金の貸し借りや取引が、相手が約束を守るという信用によって成り立つ経済のことです。この論考では、資本主義そのものが信用を土台に動いていると受け止めています。
- 信認(しんにん)
- 信じて認めることです。通貨については、人々がその価値を信じて受け取り続けることを指します。
- 取り付け騒ぎ(とりつけさわぎ)
- 銀行の経営が危ないという不安から、預金者が一斉に預金を引き出そうと押し寄せることです。
- 疑心暗鬼(ぎしんあんき)
- 疑う心があると、何でもないことまで恐ろしく思えてくることのたとえです。
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